大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

仙台高等裁判所 昭和37年(ラ)63号 決定 1963年10月01日

抗告人 大山孝男(仮名)

主文

本件抗告を棄却する。

理由

本件抗告の趣旨および理由は、別紙記載のとおりである。

抗告人の本件抗告の理由とするところは、要するに、「抗告人は、日本人であるから、抗告人が日本人であることを確認することができないとして抗告人の就籍許可申立を却下した原審判は不当であるから、これを取り消して、就籍を許可すべきである」というのである。しかし、本件記録によると、抗告人は、物心づいた幼時は、当時満洲国奉天市大和区橋立町に居住していた母イシ(姓不明)に育てられ、父大山健治は、母をめかけとしていた模様で、父とは別居していたと主張するものであるところ、先ずもつて、父母の本籍、経歴が不明確で、その他父母が日本人であると認めるに足りる証拠はなく、次に、抗告人の出生地もまた不明であり、更に、抗告人が昭和一六年四月ごろ東京都板橋区(現在練馬区)高松町所在の東京高等無線通信学校に入学するに至るまでの境遇、経歴関係をみても、必ずしも抗告人をして日本人であると認めさせるに足りる程度に明白であるとはいえず、その他本件記録によつても、抗告人をもつて、日本人であると認めるに充分でない。

よつて、抗告人の就籍許可申立を却下した原審判は相当であつて、本件抗告は理由がなく、これを棄却すべきものとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 松村美佐男 裁判官 飯沢源助 裁判官 野村喜芳)

別紙

抗告の理由

一、抗告人は物心づいた幼時には当時満洲国奉天市大和区橋立町に居住していた母イシ(姓不明)に育てられた。

父大山健治は母イシを妾としていた模様で右イシの居住する橋立町よりバスで三〇分位離れていた同市協和街で米等の販売をしており別に妻子があつて時折抗告人方に尋ねて来て生活をみていた。

二、抗告人は昭和五年に奉天の春日小学校に入学し昭和一三年に奉天高等小学校に入学し続いて奉天青年学校に進んだが、同校夜間部を卒業して昭和一六年四月頃東京都板橋区(現在練馬区)高松町所在東京高等無線通信学校に入学し、同一七年一二月に中途退学して、当時東京都日本橋区(現在中央区)茅場町に本社を有していた船舶無線電信株式会社に入社し、同会社横浜支店、三浦三崎駐在所等に勤務した後同二四年八月頃同会社を辞め、その後福島県磐城市において漁船に乗組み同三三年一〇月に漁夫をやめ同三四年五月から同市三共無線電機商会に勤務して現在に至つている。

三、抗告人は幼時父母より本籍地は愛媛県東宇和郡高山村大字田之浜○○番地と聞かされ宇和島で出生し二歳から四歳位迄の間に満洲に渡つたらしく奉天市大和区橋立町○○番地に居住し、父健治は母イシを妾にしていたもののようで米穀等を販売し、時々夜間に通つて来ていたのみであつたが、イシ方の門口には父健治の表札が掲げられてあつた。又抗告人の通学した春日小学校、奉天小学校高等科、奉天青年学校、東京高等無線通信学校在学中父健治を保護者として届け出ていた。

それで抗告人は父母より教えられていた愛媛県東宇和郡高山村大字田之浜○○番地に本籍があるとのみ信じていた処、昭和二二年三月現在の妻井沢みちと結婚したので婚姻届を出すべく前記本籍地に戸籍謄本の送付を依頼した処右本籍地役場より本籍がない旨返答を受けて驚ろきその後種々調査したが判明しない。それで已むなく抗告人は昭和三二年一月二九日福島家庭裁判所平支部に就籍許可の審判の申立をなし、右事件は同庁昭和三二年(家)第一三三号事件として審理された(以下この事件を前件と略称する)。

前件に於ては種々綿密な御調査がされた。その主なものは次の通りである。

(1) 昭和三二年二月一九日右裁判所家事調査官山口照光殿により抗告人本人の調査右調査に於て抗告人は前記一乃至三の事情を申述したが特に前記船舶無線電信株式会社時代の友人山木忠正が現在塩釜市香津町○○に居住して無線技師をしておる旨を申述した。

(2) 同年二月二六日愛媛県東宇和郡高山村長に対し大山健治、イシ抗告人の戸籍の有無、氏名等異なつてこれに該当すると思われる者があればその戸籍その親族の有無につき調査嘱託した。

(3) 同年二月二二日文部省管理局長に対し東京高等無線学校が現在存続しているか否か、廃校の場合は学籍記録の保管先の調査を嘱託した。

右嘱託に対しては所轄庁が東京都知事であるから同知事宛嘱託されたい旨の回答があつた。

(4) 同年三月二八日東京都知事に対し右(3)の記載事項の調査嘱託をした。

(5) 同年五月八日抗告人本人及び内縁の妻井沢みちの審問が行なわれた。

(6) 同年八月二四日抗告人本人の審問が行なわれた。

(7) 同年八月三一日仙台家庭裁判所に対し前記(1)記載の抗告人の友人山木忠正に対する左記事項の調査を嘱託した

A 被調査者が抗告人を知るか否か、

B 抗告人を知つた時期、関係、

C 抗告人の経歴を知るか否か、

D 抗告人の本籍親族の氏名住所、

右調査嘱託を受けた仙台家庭裁判所家事審判官伊藤正彦の同年九月一二日付報告書によると右山木忠正は抗告人を知つており、抗告人とは昭和一八年一一月頃船舶無線電信電話株式会社横浜支店内社員養成所で知り合い三ヵ月後横浜支店工務課に配属になり、半年間職場の同僚であつた。昭和二一年山木が新潟駐在所へ出張した時当時同駐在所に勤務していた抗告人の家に同居した為め約一ヵ月半の滞在中色々世話になつた。その後時折会つている。抗告人の経歴については詳しいことを知らない。山木が抗告人と知り合う以前は抗告人は幼少の頃奉天に住んでいたらしいことを知るのみ。抗告人と知り合つて後の抗告人の経歴は大凡抗告人の申立通りである。抗告人の本籍親族のことについては全く知らない。とのことであつた。

(8) 同年九月二八日船舶無線電信株式会社社長に対し抗告人が同社に勤務したことがあるか否か。入社退社年月日、戸籍抄本等の提出の有無等の調査を嘱託した。

(9) 同年一一月二九日東京家庭裁判所家事審判官に対し(8)記載の事項を嘱託した。

これに対する東京家裁の調査の結果は同庁調査官小林麗子が右会社庶務課責任者と電話にて話合つた結果昭和二〇年頃大山孝男が右会社に入社していたことが判明したが、その他は帳簿がないため不明。

(10) 同三三年六月二〇日警察庁長官に対し指紋による抗告人の前科の有無の調査方を嘱託した。

(11) 同年七月九日東京家庭裁判所家事審判官に対し、先に東京都知事に照会した結果東京高等無線電信学校は昭和一九年九月三〇日廃止され学校関係者が不明なので学籍記録保管先も不明との回答があつたについて、右学校学籍記録保管先の調査方を嘱託した。

(12) 同年七月一一日抗告人より福島家裁平支部に対し、抗告人か、船舶無線株式会社勤務中の住所は、

A 横浜支店当時横浜市中区不老町二丁目(番地不明中島パン屋隣)

B 三崎駐在所勤務当時神奈川県三浦郡三崎町仲崎○○館である旨上申した。

(13) 同年八月二五日横浜家庭裁判所に対し右(12)のABの住所の当時近隣者につき抗告人の本籍、生年月日父母の氏名、親族関係等の調査を嘱託した。

右嘱託に対する横浜家裁家事審判官苗沢保節の同年一〇月一五日附報告によると次の事実が判明した。

A 横浜市不老町一帯は戦災後米軍の接収にあい、調査不能

B 三浦市三崎では、

同市三崎町仲町○○番地旅館○○館経営

松村くにこ

を調査した結果同人の陳述の要旨は次の通りであつた。

同人は友人と二人で下宿し船舶無線に勤めていた。二〇歳前の青年で一見学生あがりの様子でまじめな方だつた。同人が朝鮮人であるとは考えられない。

C 同市三崎町日の出○○○番地無職

川瀬テルコ

を調査した結果同人の陳述の要旨は次の通りであつた。

船舶無線電信株式会社三崎駐在所はテルコの夫川瀬和男がやつていた。大山孝男ともう一人の人を使つてやつていた。大山は写真の主に間違なく、朝鮮人ではないと思います。

D 同市三崎町海南○○番地電気器具商

田原俊雄

の陳述の要旨は次の通りであつた。

田原俊雄は船舶無線株式会社で抗告人と同期生であり、この店の加藤正男は川瀬和男のやめたあと三崎駐在所をやつていた人で同人も抗告人をよく知つている。抗告人は言葉のなまりなどからみても朝鮮人では絶対にないと思います。写真の主に間違ない。

E 東京高等無線学校は代議士中村梅吉が理事長であつたが昭和一八年一〇月国立無線電信講習所に併合された。同校の校務を司つていた中野新一(死亡)の子である中野義男方で調査した処、東京高等無線の在校生名簿は最近まで同人方で保管していたが焼却した。

(14) 昭和三三年一〇月二一日附東京家裁馬杉調査官の家事審判官に対する(前記(11)記載の嘱託に関する)報告書によると東京高等無線電信学校の学籍簿は戦災のため焼却したことが判明した。

(15) 同三四年二月五日抗告人本人の審問が行われた。

右審問に於て抗告人は母の苗字は解らない。母は昭和一二年に死亡し当時抗告人は一二、三歳であつた。母の本籍は愛媛県だつたと思うがはつきり解らぬ。或は父の本籍だつたかも知れぬ、学校の卒業証書は全然ない旨陳述した。

五、福島家庭裁判所平支部は以上の審理を遂げた上で昭和三四年八月一九日申立人の申立を却下する旨の審判をなした。その理由は本抗告書末尾に附した写の通りであるが、その要旨は

(1) 抗告人が昭和一六年四月東京高等無線通信学校に入学して同一七年一二月中途退学し、船舶無線電信株式会社に入社し同社横浜支店三浦三崎駐在所等を歴任した後同二四年これをやめ、その後漁船乗組員になつていることは認められるが、

(2) 抗告人が東京高等無線通信学校に入学する以前の経歴や両親に関することその他の事実は確認することが出来ないとし、

(3) 特に抗告人は物心づいてから母イシと共に暮し、父とは共に暮した事がないと言うのに父については氏名、年齢、職業等を述べているが母イシについては一二歳迄一緒に生活して来たに拘らず、聞いたという本籍には母イシを発見できず且つその苗字年齢さえ記憶していないこと。及び抗告人は昭和二〇年一月二二日満二一歳に達し徴兵適令になつていたから当時の緊迫した情勢下からすれば世間の思惑からしても兵役義務を有していた日本人ならば市町村役場の兵事係等に申出でてその調査を求めたであろうのに抗告人がかかる措置に出なかつたのは不思議であるとして抗告人は日本人でなく外国人ではないかと思うと言うのである。即ち抗告人が東京高等無線通信学校に入学して後の経歴については大山孝男としてつまり日本人として生活して来たことを認めたが在満当時の生活関係が一切明らかでないためこの点から抗告人が日本人であることを裁判所は信じられなかつたのである。

六、抗告人は奉天に於ける知人近野タミ大木俊彦が終戦後日本に引揚げて来ているのを知つていたので兼ねてラジオの尋ね人等より探しており、一度は九州熊本にいることを確め手紙を出したが後再び連絡不能となり磐城警察署勤務警察官根岸弘康に依頼して捜索して貰つていた処、右近野タミ等が東京に居住していることを確め、根岸警官は皇太子御成婚の警備に上京した折抗告人の写真を持参して右近野らに面会して抗告人について尋ねた処、近野等は抗告人の母死亡後抗告人は父と共に近野らの家に間借していたもので、抗告人の父死亡の際は憲兵、警察官らが来て葬式を取仕切つて行なつたこと、この事からすると抗告人の父は特務機関の仕事をしていたものと思われる。又抗告人は当時日本人しか入れない春日小学校に入学していたものであること等を話し抗告人が日本人であることは間違いないと話していた。

七、それで抗告人は福島家裁平支部に再び就籍許可の審判申立をなした。それが本件の原審である。

原審に於ては

(1) 抗告人に対し調査官による調査

(2) 大木俊彦に対し右に同じ

(3) 近野タミに対し東京家裁嘱託による調査が行われた結果昭和三七年八月八日抗告人の申立却下の審判があつた。その審判の要旨は前件並びに本件の記録を精査すると抗告人は母イシの婚外子である旨申立ているが、亡母イシの国籍、身分等を知る資料もなく又抗告人の出生地が日本であるかどうかも判然としないから抗告人が日本人であることを確認することができないというのである。

八、然しながら原審御審判は記録に表われている事実を見逃された結果事実誤認をして抗告人が日本人であることを認めなかつたものである。即ち

(1) 抗告人が東京無線電信学校入学後特に船舶無線株式会社に入社後大山孝男として日本人としての生活を営んで来たものであることは前件で明らかになつたことである。特に前件の被調査人川瀬テルコ、田原俊雄等は抗告人の言葉のナマリ等からしても抗告人が日本人であることは間違ない旨陳述している。従つて抗告人が日本人である可能性は相当強いものであり、唯前件に於ては抗告人の在満当時の生活関係が一切不明で抗告人の陳述以外に何も資料がない所から抗告人の日本人であることが認められなかつたのである。

(2) 而して原審に於ては大木俊彦、近野タミらより抗告人は奉天市に於て母死亡後父大山健治と共に近野方に間借りして生活していたこと、日本人のみ通学を許されている春日小学校に通学し日本人として近野の世話になり又大木の幼友達であつたこと大木らが戦時中東京に来てからも東京で面会していること等から抗告人が日本人であることは間違いない旨の陳述がなされている。原審の御審判に於ては抗告人の母イシの国籍、身分関係が不明であるから抗告人を日本人と確認し得ないとしているが、抗告人の母イシのことについては不明であり、かりに日本人でなかつたとしても抗告人の父大山健治については近野タミら奉天在住日本人によつて日本人とされて生活していたことが明らかである。

日本人と日本人以外の者の区別は極めて明瞭なことであつたとのことであるから抗告人が日本人たる父大山健治の子として日本人の取扱いを受けて来た以上抗告人が日本人であることは相当程度信用性の高い事実と言わねばならない。父健治の本籍等は不明であるが、このことは父健治死亡の際憲兵警察官が来て葬式を行なつたことから特務機関員であつたと思う旨の近野タミの陳述で納得の行くことである。父健治が特務機関員であれば自己の本籍その他身分関係を近所の者にも又幼い抗告人にも明らかにしないのが当然である。

戦前戦中に於ては本籍等身分関係前歴等の明らかでない日本人が多数外地に居住していたものであり隣人相互に於ても本籍その他相手の身分関係はあまり判然しなくとも日本人か否かということは明瞭なことで日本人である限り通常の交際をしていたのである。されば外地に於て日本人として生活して来た者は大凡日本人と考えて大過ない。この事実と抗告人が戦時中日本の国籍会社に日本人として就職していた事実とを考え合わせると例え両親の本籍等は不明であるとしても抗告人が日本人であることは殆んど疑を入れる余地はない。

九、抗告人に対し兵役がなかつたことが前件に於て申立却下の一の理由となつているが、抗告人の父大山健治が特務機関員であつたとすればその本籍等も明らかにしなかつたことが推測されるから抗告人も或は本籍を有しなかつたかも知れない。即ち抗告人は本籍があつていずこにあるか不明なのではなくそもそも本籍がなかつた(出生届がなかつた)ことも考えられる。然しそれだからといつて抗告人が日本人である事実に変りはないからその理由で申立を却下するのは妥当でない。

一〇、本件抗告人は在満当時も日本に渡つてからも本籍等身分を証する書証が一つもなく唯関係者の証言によつて日本人であるか否かを明らかにしなければならない。従つて近野タミ、大木俊彦らの陳述の信憑性如何が本件に於ては極めて重大な事実である。抗告人は近野タミ大木俊彦らが日本に帰つていることを噂で知つていたのでラジオの尋ね人で探し、一旦はその住所を知り得たが再び不明となり遂に根岸警官により発見したものである。されば近野等が抗告人の意に添うように虚偽の陳述をすることは考えられず近野等の証言は全面的に信じて良いものと確信する。

一一、抗告人が第三国人であつて日本の国籍を不法に取得するため本件申立をしていることは到底あり得ない。けだし日本の国籍を不法に取得してしまうならば戦災にあつて戸籍簿が焼失してしまつた本籍地を申出て戦後の混乱中に戸籍を取得してしまうことが出来たであろうからわざわざ本件の如き立証困難な立申を現在に至つて為しているのはとりもなおさず抗告人が自己の本籍は徳島に存在すると信じていたことを物語るものだからである。

又前件に於ては結局に於て抗告人の陳述を信用することができないとして申立を却下されたが、抗告人は前件の調査当時より大木俊彦という友人がいたことを申立てており(尤も前件の調査に於ては大木俊彦と姓を取り違えて陳述しているが、それは幼時の記憶であるからと考えられる。)その大木俊彦が前件の審判後に発見されて本件原審に於て調査を受けているのである。されば抗告人の陳述は瞹昧なところや一部不明な所があるとしても虚言をしているのではなく唯幼時の記憶のため判然しないことなので瞹昧になつているにすぎない。

一二、以上の次第で抗告人はその両親の本籍等が不明であるけれども日本人であることは間違いないのであるから本籍がない以上就籍許可の御審判あるべきものである。

参考

原審判(福島家裁平支部 昭三二(家)一三三号 昭三四・八・一八審判 却下)

申立人 大山孝男(仮名)

主文

本件申立を却下する。

理由

本件申立の要旨は「申立人は大正一三年一月二二日父大山健治、母イシの長男として出生したが、その後両親に死別した為戸籍の所在が判明しないので福島県磐城市大字永崎字川畑○○番地に就籍したいから許可を求める」と言うにある。そこで申立人の陳述その他本件記録に依ると、申立人は昭和一六年四月頃東京都板橋区(現在練馬区)高松町所在東京高等無線通信学校に入学したが、昭和一七年一二月に中途退学して、当時東京都日本橋区(現在中央区)茅場町に本社を有していた船舶無線電信株式会社に入社し同会社横浜支店三浦三崎駐在所等に歴任した後昭和二四年八月頃同会社を辞め、その頃漁船乗組員になつて現在に至つておりその本籍が判らないことを認めることができるけれども、申立人が東京高等無線通信学校に入学する以前の経歴や両親に関することその他の事実は之を確認することができない。即ち申立人の各陳述を綜合すると申立人は出生場所は判らないが大正一三年一月二二日本籍不詳大山健治(昭和二〇年五月当時の年齢は六〇歳位であつた)と本籍愛媛県東宇和郡高山村大字田之浜○○番地と聞かされていたイシ(苗字、年齢共に詳らかでない)との間に出生し、四歳頃当時住んでいた四国の宇和島から満洲に渡つたらしく、物心がついた頃には母イシと共に満洲国奉天市大和区橋立町○○番地に居住しており、父健治は母イシを妾にしていたらしく別に妻子があり、同市敷島区協和街に店舗を構えて米穀等を販売し、時々夜分に通つて来ていたもので、申立人は曾て父健治と一つ家に棲んだことがなく又父健治の家に出入したこともなかつたが、在学中保護者として父健治を学校に届け出てきたし、当時申立人方の門口には父健治名義の表札が掲げられてあつた。申立人は奉天市内に在つた春日小学校尋常科及び奉天小学校高等科を卒業し、更に奉天青年学校三年に修了した後、前記認定の東京高等無線通信学校に入学する等の学歴職歴を経て現在に至つているところ、その間昭和一一、二年頃の春母イシに逝かれたが、その後も父健治の許に同居しないで引続き前記住所に於て女中某と二人で暮して来ており更に前記船舶無線電信株式会社に勤務中の昭和二〇年五月下旬には満洲から「父健治が死亡した」旨の電報を受取つたけれども、当時渡満することが出来なかつた為、父健治の妻子の消息は全然不明であるのみならず、何処にどのような親族がおるのかも詳らかでない。申立人は終戦当時既に満二一歳になつていたが、それまでに徴兵検査をうけていないばかりでなく、その通知も受けていないけれども従前一度も之について市町村役場その他の機関に照会等をしたことはないと言うに在つて、申立人は物心が附いてからは母イシと二人だけで暮し、父健治とは一つ家に棲んで来たことがなく、父健治は他に妻子があつて同人等と同棲し、夜分時々申立人方に通つて来ていたにすぎないのであるから、申立人は父健治よりも母イシのことをよく知つていなければならない筈なのに父健治については氏名、年齢、職業等が述べられているが、母イシについては一二歳頃迄一緒に生活して来たに拘らず、その聞いたと言う本籍には母イシを発見できず、且つその苗字、年齢さえも記憶していないと述べていて、その陳述内容は甚だあいまいであり、又申立人の生年月日がその主張通りとすれば、申立人は昭和二〇年一月二二日満二一歳に達し、既に徴兵適齢になつており、しかもその頃太平洋戦争は苛烈を極めたし、間もなく国土内も空襲をうけ始め、学徒動員、女子挺身の緊迫した情勢下にあつたものであるから、当時兵役義務を有していた日本人ならば、恐らく世間への思惑等よりしても、一回位は市町村役場の兵事係等に申し出てその調査を求めたであろうに、申立人がかかる措置に出ていないことも又不思議であつて、申立人の前記陳述は到底真実のものとは認められない。かえつて、本件記録に申立人の陳述態度を照し合せると、申立人は日本人でなく外国人殊に第三国人ではないかと推測される。そうすると、就籍申立には先ず申立人が日本人であることを必要とするところ、本件申立は之を欠いていて失当なことが明らかであるから主文の通り審判する。

(家事審判官 鈴木盛一郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例